小沢一郎の政治手法なるものについて/あるいは保守本流政治システム3.0

市民としての小沢と、政治家としての小沢

だが、さすがにもうブームは一段落したので、ようやくこの「政治とカネ」の呪縛を離れて小沢一郎という人の資質を論ずることが出来そうに思う。そこでもう一度問を立てなおそう。小沢一郎という人はいかなる政治手法を用いていたのか。そしてそれは求められるべきものだったのか。
posted at 20:20:10

小沢一郎は旧自民党保守本流の系譜の末流といわれる人で、この点をつかまえて金権政治家というレッテルを貼られ続けてきた。それは、公金を管理する政党の要職にあって、公金を利用して勢力を拡大する手法をさしており、じじつこの手法で小沢氏は党内勢力を拡大してきた。
posted at 20:26:18

ただし気をつけねばならないのは、公金を勢力拡大に利用したからといってそれは職務権限的として法的に不当とは限らないということ。そして小沢氏の場合特徴的なのは、それが不当どころかまったく正当であった可能性すらあるということ。この点が話をややこしくしている。
posted at 20:28:40

小沢氏は、公金を使って自分の権力を拡大するということを、手段において何らやましいところのない方法でやっていたと仮定してみよう。その場合、法的には何の問題もないので、検察から操作対象とされるいわれはないし、悪し様に報道されるいわれもない。ところが…
posted at 20:33:58

一方で、公金を党内勢力拡大のために利用しているという事実が厳然としてあり、その政治手法そのものが選択されるべきものか否か問われる場合というのは別問題として存在している。要するに、法的に問題ないとして、だからとて有権者がかれを支持すべき理由になるのかと、そう問われる局面があるのだ。
posted at 20:36:41

プロパガンダの罠ーーふたたび「政治とカネ」

「政治とカネ」という言葉は、法的問題と政治的問題を意図的に混同させ、政治意識を特定方向にドライブさせるところがある。それは明白なプロパガンダであり、否定されるべきものだ。その一方で、それはそれとして公金の政治利用の是非を有権者として判断しなければならないのは事実であった。
posted at 20:41:17

つまり何が言いたいかというと、今般の小沢ブームは、「政治とカネ」という言葉のプロパガンダ性を批判するものでありながら、同時に否定的な姿勢でこのプロパガンダに乗せられるものであった可能性があるのではないかと。巨人が嫌いなあまりかえって日テレの巨人戦に注視するような。
posted at 20:44:34

まことにプロパガンダというものは罠として周到だ。それは、僕らが「罠だ」と見抜いたところで、それはそれとして罠にはめてしまうところがある。僕らは「政治とカネ」という言葉に乗せられた瞬間から、アンチ小沢になるか小沢シンパになるしかなかった。結局僕らは報道機関の筋書きに乗せられたのだ。
posted at 20:48:12

こうした罠を逃れるためには、もっとドライな態度が必要だった。つまり、小沢一郎という人や、彼に批判的な人(たとえば仙石氏)について無関心を決め込む(!)こと。人物に無関心でありつつ政治的構造そのものをシステムとして問題にすること。ドラクエの勇者のように中性的なものとして見ること。
posted at 20:54:31

言ってみれば、それは一種の現象学的還元だ。
posted at 20:54:50

保守本流政治システム3.0

いまや僕らは、小沢一郎という人のことを、いや小沢氏だけでなく菅総理や仙石氏らのことまでもいったん忘れた(!)うえで、そのうえで小沢的な政治手法、菅的な政治手法のありようを問題にしなければならない。
posted at 20:57:26

小沢氏の政治手法は、政治資金集配・票田開拓システム。田中角栄によって開発され、竹下・金丸によって簒奪されマイナーチェンジされたものを、使用実績を踏まえてバージョンアップしたものだ。保守本流政治3.0とでも言ってみようか。
posted at 21:05:27

このシステムの実績は十分だろう。これで竹下派自民党において圧倒的多数派を形成したし、民主党においては小沢グループの規模を30人クラスから150人クラスに拡大した。効果は絶大。さて、ところでこのシステムは利用し続けるべきものなのか?
posted at 21:09:47

僕らは保守本流政治システム3.0の是非を判断したのか?ーー哲学的正しさと歴史的判断

じつはこの点がシビアに問われたのが先の代表選だったのではないかと僕は思っている。メディアのプロパガンダを余所に、この点は政治の構造的認識として無意識のうちに問われていたのではないか。そして、その問いは確かに党員有権者の判断に掛けられ、結論を出されたのではなかったか。
posted at 21:14:50

要するに、小沢氏の所有する保守政治システム3.0は今後稼働させるべきものなのか。それが小沢氏にたいする好悪感情とはパラレルなものとして確かに問われた。そしてそれは、兎にも角にも選挙システムによって「捨てるべし」との結論が出された。問題は、それが熟議の末の結論ではないこと。
posted at 21:18:24

熟議的民主主義の立場の人が見るなら、こんな判断プロセスは不当である。ひとつのシステムをどうするかという重要な問題は、代表選などという性急な展開を経るのでなく、すべての立場の者同士熟議を重ねた末に出されるのでなければならない。こうした立場には確かな理がある。
posted at 21:21:54

ただ、僕らにはこういう熟議的民主主義の立場を貫徹するわけにいかない事情がある。時間がないのだ。そんなことをしている間に僕ら自身の生活が崩壊してしまうのではたまらない。だから、政治哲学的に正当な結論ではなく、とりあえず暫定的に結論を出すことが要求される。選挙はそのためにあるのだ。
posted at 21:24:28

ともあれ小沢的政治手法=保守政治システム3.0は廃棄すべしという政治判断は成立した。勿論それは暫定的結論であり、哲学的に正当な結論ではないので、まちがっている可能性は残る。
posted at 21:29:31

判断はつねに歴史的なので、あとの時代になってから「この時の判断はまちがっていた」ということになる可能性はつねに残り続ける。まして今般の場合、廃棄対象が効果絶大のシステムなので、ただでさえもったいない(!)。国家危急の時期にそれを手放して良かったのだろうか?
posted at 21:32:53

その当否は、やはり分析的に判断するしかないだろう。
posted at 21:35:38

ふたりの「ハブ的人物」ーー竹下登小沢一郎

小沢的政治手法=保守本流システム3.0は効果絶大だ。しかも次期バージョンから汚職防止機能も実装予定。勢力拡大は政治家として当然の原理なので、政治家としてこれを利用しない手はないはずだ。だが、このシステムには問題がある。
posted at 21:37:48

保守本流システムの問題。それは、資金流通のためにはハブとなるべき人物が必要で、かれに幹事長などの要職を務めてもらわなければならないこと。このとき、システムの性質はハブ的人物個人の資質に大きく依存してしまう。
posted at 21:39:48

たとえば竹下登という人は典型的なハブ的人物だった。彼は言っていることがわけわからないかわりにやたらに懐が深く、いかなる清濁も併せ飲んでしまう。とにかく陳情はよく聞いてくれる。だから、党内反主流派はもちろん共産党幹部に到るまで竹下詣でを欠かさなかった。問題は、聞きすぎること。
posted at 21:45:57

過ぎたるは及ばざるが如しとはよく言ったもので、陳情は聞きすぎると判断できなくなってしまう。いくら竹下の懐が深いからといって深刻な政治対立が解消されるわけでなし。結局、消費税導入に際しては事を荒立てる羽目に陥ったし、ばら撒きすぎたリクルートコスモス株をめぐって騒動が起きた。
posted at 21:49:35

小沢氏の場合はどうか?彼の場合は逆で、そのストイックすぎる性格ゆえ、人間的魅力は豊富な反面話しかけづらく、人が寄らない。陳情もそれほど集まらないのでいつでも彼は無知の座敷牢の中。それでも判断はしなければならないので判断するのだが、結果的に話を聞いていないので独裁者呼ばわりされる。
posted at 21:55:51

そのおかげで、本来政治家個人のキャラクターとは独立に存在するものであるはずの保守本流政治システムは、つねに「小沢一郎の政治手法」と、彼個人の名前で呼ばれ続ける。そして、小沢氏個人に関する判断がそのままシステム選択の踏み絵になってしまい、結局優秀なシステムを稼働させる機会は乏しい。
posted at 21:59:22

その果てにシステムそのものの廃棄が決定されたのだとすれば、なかなか不幸なところがある。結局現時点において、その決定が当たっているのかいないのか、誰にもわからないからだ。ただ、これほどにハブ的人物個人の資質に依存してしまうのがシステム的に弱いところなのは確かだろう。
posted at 22:02:04

Twitterにおける小沢ブーム(第一期:2010年春~鳩山政権退陣、第二期:鳩山政権退陣~民主党代表選)

はじめに

改造内閣が始動した。こうなってくると僕らは泣いても笑っても覚悟を決めるしかないわけで、いちど立ち止まって考えておいた方がいいと思った。そこで少し、小沢一郎菅直人という人らについて少し振り返ってみようと思う。
posted at 19:26:06

やはり最大の謎というか論じられるべき論点は、twitterのTLなどでは完全に小沢支持の流れが圧倒している風に見えながら実はそうではなかったという主観と客観の乖離だろう。
posted at 19:29:41

Twitterにおける"小沢ブーム"第一期

遅くとも今年に入って以来、TLを見るかぎり小沢支持は一大ムーブメントとなっていた(ように見えた)のは事実で、そこはある程度確かなことだと思うが、それをかりに小沢ブームと呼ぶとするならば、ブームはなぜ起こったのか?
posted at 19:32:23

いま春先の頃を振り返ってみると、小沢さんに対する地検の捜査から不起訴に到るまでの流れで、検察の捜査手法と記者クラブメディアの報道姿勢が、小沢さんをハブとして盛り上がっている時期があった。不当捜査・不当報道問題がブームをなしていた。
posted at 19:41:16

それは上杉隆氏や岩上安身氏が脚光を浴びた時期でもあるが、かれらも言っていたようにこの問題それじたいは人権問題であって政治問題とは切り離されたものだ。多くの人もそこは理解していた。ところが実際には、不当捜査批判ブームは政治的な小沢ブームへとシームレスに繋がっていった。
posted at 19:45:40

ブーム第二期へシームレスに移行

ふたつのブームは、不当捜査批判ブーム、政治的な小沢ブームといった風に、論点として区別することはできるのだが、時間軸として前者が後者にシームレスに以降する過程を誰もが違和感なく踏襲してしまったのは、空気の一貫性があったからだ。
posted at 19:50:18

小沢一郎というひとりの日本国民にして政治家である人を、市民的には擁護しつつ政治的には批判するという態度は、論理的に容易ではあってもじっさいには難しい。そこまで切り分けて考えるためには、どこかでこの一人の人物を分析的に(!)まなざす必要があわけだが、それをするとTLに乗り遅れる。
posted at 19:53:09

思えばTLというものは、ある種一貫した"場の空気"みたいなものを形成する強い力のようなものがあって、TLに乗り遅れまいとする僕らユーザーの心理に働きかけ分析能力をマヒさせるところがあるのではないか?そう思うと、ちょっと怖い気がする。
posted at 19:56:09

「政治とカネ」という言葉

しかし、今となっては二つのブームは両方とも過去のものになったので、いまならそこそこ分析的に考えることが可能だと思う。捜査・報道機関に対して市民的には擁護されるべき小沢一郎という人は、政治家としてどうなのか。
posted at 19:58:08

たとえば、小沢氏の政治姿勢について、マスコミ報道では「政治とカネ」という言葉が使われた。じつは僕はこの言葉をtwitterで初めて書く。というのも、これまでこの言葉を意図的に無視していたから。
posted at 20:02:44

なぜ無視していたかというと、警戒していたから。この種の、報道機関がストーリー形成に使用するキーワードは、本来は別個のものである認識対象をごちゃまぜにし認識を誤らせる。いわば認識論的障害とでも呼ばれるべきものの代表格なので、これは無視した方がいいのだ。
posted at 20:05:59

一方、一連のブームの中で、小沢さんの話題をつぶやきながら「政治とカネ」という言葉を無視し続けることのできた人はほとんどいなかった。そもそもその必要性を感じなかったのが主因というところだろうが、できない事情もあった。それは、このブームがあらかじめ報道批判を含んだブームだったから。
posted at 20:10:51

「政治とカネ」は認識論的に混合物だ。これは刑事司法の問題と、政治手法の問題を混同する。この点、「政治とカネ」が世論を扇動する側面を警戒し批判する人はあったわけだが、その一方小沢一郎という人の資質を、司法の問題と政治の問題ときっちり場合分けして論じる人はほどんと見掛けなかった。
posted at 20:15:34

こんなことを言いつつ、僕自身も後知恵だからこういうことを言えているのだろうことも自覚している。「政治とカネ」という認識論的障害は思ったより厄介な代物だった。それは、警戒する人をもミスリードする力を持っていた。
posted at 20:17:17

可罰的違法性論について

ごぶさたしております。

ええと、刑法の話ですが、前田雅英教授(首都大学東京)をめぐるエントリーで可罰的違法性について不正確な記述があったのでコメントしたのですが、例によって舌足らずになったのでちょっと補足。*1

http://devprx-93485234.blog.ocn.ne.jp/dick/2010/03/post_f33c.html

コメントで僕は、可罰的違法性論をあたかも構成要件該当性→違法性→責任という順番で論じる体系(団藤・大塚的な規範的アプローチ)を前提し、そのなかで2番目の段階で可罰的違法性が検討されるというように読める記述をしてしまっておりますが、じつはそれだけでなく、構成要件該当性の判断において可罰的違法性論が援用される場合があります。というか、この理論は違法性全般にかかわる理論なので、違法性が論じられる可能性のある場合はことごとく関連があります。むしろ、構成要件該当性の判断にあたって援用されることの方が多いでしょう。

ただ、その場合でも「一見条文に当てはまっていなくても立法趣旨からして処罰すべき行為であれば構成要件に該当する」という趣旨で言われることはありません。もともと可罰的違法性論は、違法一元論、つまり民法行政法などで違法とされる行為と刑法で違法とされる行為を一元的に捉え、民法で違法ならばそれは違法性のある行為なのだと考える違法観を前提しています。その意味で、たとえば不倫をすることは不貞にあたり離婚事由になるので違法性があるということになりますが、刑事的に処罰されることはありません。それは処罰される条文がない*2からですが、じゃあそれは違法性がないのかというと、日本の法律が違法と考えているのだから、違法性はあると。でも、違法だからといってそれにたいする各法律の対処の仕方はそれぞれの法律次第なので、刑法が処罰す可(べ)きと、つまり可罰的とみなして条文に盛り込むのでない限り、違法であっても処罰はされない。その場合、不倫することは違法性があっても可罰的違法性はないということになる。こういう見方をする場合、刑罰法規の構成要件は、たんに違法類型なのではなく可罰的違法類型なのだと、そういうことになるわけです。*3

そういうわけなので、可罰的違法性論はそもそも最初から処罰範囲縮減理論なのです。構成要件の形式性を否定する立場の人(近代学派)ならば「一見条文に当てはまっていなくても立法趣旨からして処罰すべき行為」だから処罰されるべきと考えることも論理的には可能ですが、その場合構成要件理論は採用しないでしょう。構成要件の概念には類型性(明白な文言による違法行為のリストアップ)が含まれるわけですが、その類型から外れる行為の違法性を認めるわけですから。つまり、「一見条文に当てはまっていなくても立法趣旨からして処罰すべき行為」と判断することを「構成要件に該当する」とはいいません。だから、「一見条文に当てはまっていなくても立法趣旨からして処罰すべき行為であれば構成要件に該当する」という記述はありえないのです。構成要件理論を前提する限り、可罰的違法性論は必然的に処罰範囲縮減理論になります。

ところが、前田教授は違法一元論が可罰的違法性論の理論的前提にあることについて無理解で、刑法で違法とされることが違法性なのにわざわざ可罰的違法性と呼ぶのは議論を煩雑にするから議論に実益がなく、違法性が相対的だと考えるほうが簡単だと言っています。*4そういう意味では元エントリは前田説理解に関しても不正確なのですが、嫌いな前田雅英の理論の弁証を僕がする義理はないので突っ込むのをやめました。ただ、前田雅英は実質的に、故・藤木英雄教授の実質的犯罪論を継承した立場にあり、藤木教授の学説において可罰的違法性論は枢要なので、その意味では可罰的違法性論の鬼子のような立場にあるということは言えると思います。だから、

その意味で、前田教授は可罰的違法性の理解に関する限り、伝統的な理解を引き継いだに過ぎません。ただ、前田説の体系は構成要件該当性の形式判断を違法性判断に先行させるという順番を採らないので、彼が可罰的違法性論を援用すると構成要件の実質化を招来するというトリックが生まれるわけです。

と書いたのも、趣旨においてそんなにおかしなことは言っていないと思っています。

追記

元記事、削除してしまわれたようです。代わりに、その顛末がアップされています。

http://devprx-93485234.blog.ocn.ne.jp/dick/2010/03/post_db12.html?cid=24576228#comment-24576228

前田雅英批判の趣旨に関しては共感できる部分も多かっただけに残念なのですが、こればかりはあちらの判断されるべきことなので仕方がありません。

追記2

再掲されたようです。感謝。

*1:向こうで書いても良かったのだけれど、ちと細かすぎるので。

*2:というか、削除された。

*3:井田良『刑法総論の理論構造』(成文堂)141頁以下に詳しい。余談だが、僕はこれが本邦においていちばん正確な説明なんじゃないかと思っている。松宮孝明刑法総論講義』(成文堂)102〜103頁も同旨。

*4:前田雅英刑法総論講義(第2版)』(東京大学出版会)76頁および137頁。違法性という法体系の一貫性にかかわる重要な議論においてそういうことを平気で言う前田雅英という人が何度も言う通り僕は大嫌いなのだが、彼の立場が刑法学の体系性を否定する立場にある以上ある意味論旨一貫しているのかもしれない。

橋本七度煎のCM

このCMは短い。5秒しかない。
しかし僕は、その短さゆえ大変強い印象を覚えたことを記憶している。
風邪の字をバーンとたたき割り、商品提示、そして商品名コール。
これだけで十分じゃないか。

薬そのものについては以下を参照。

http://taigendo.com/column/column07_02.html
http://diary.overlasting.net/2006-12-10-2.html
http://chalow.net/2002-02-05-2.html
http://gendai.net/?m=view&g=kenko&c=110&no=68

根強いファンがいる薬である。

一体全体、本当に日本は「規範意識の強い」社会なのか?

宿題*1をひとつ片付けてみる。

宿題一覧

以下は、海部美知氏の記事「「基準から外れてしまった」人をどうするか - Tech Mom from Silicon Valley」に付けた、僕のブクマコメントである。

id:michikaifu:20090907:1252383861

規範意識なしに法治社会はないわけだが、同時に法を社会契約の範囲まで縮減して民を抑圧的な規範から解放するのも法治社会の基本的役割。政権交代成った今、僕らは漸く規範を選ぶ自由を手にしたのかもしれない。
b:id:nornsaffectio:20090908

まあ、こんな舌足らずなコメント読んでさっと意味を取れる人はほとんどいないわな(苦笑)。というわけで、もうちょっとちゃんと書こうというのが宿題だった。

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/michikaifu/20090907/1252383861

さて、他のブクマコメントを一覧すると、まあ毎度の事ながらものの見事に話が混乱してしまっている。規範意識概念の理解が錯綜しているせいだが、まあこれはしょうがない。なにしろ厳しい字数制限があるうえに、海部氏自身が定義をネグっている*2のだから。しかしまあ、そんな意地悪言っていてもはじまらないので、ここではそれは置いといて、ちょいと規範についてふりかえっておこうと思う。

「法は道徳の最低限」という言葉があるように、法律みたいな、成文化され公権力により実効性が確保されるルールというものは、立法以前に社会に普通に通用している「こういう場合〜すべきである」という当為判断の積み重ねに依存している。だいたいそれがなければ成文化しようとか権力を通じて強制しようとかいう話もないわけで、これは論理的必然なのだが、このとき問題は、この当為判断にどういう根拠があるか、つまりどういう契機をもってその判断が正しい/まちがっていると判断されうるのかということにある。そこを読み誤ったらその法に支配される民衆は誰も納得しないだろうから、法律をつくるどころの騒ぎではなくなってしまうだろう。というわけで、当為判断の根拠が問われることになる。つまり、規範の在処の問題だ。

だが、そんなところに詳しく突っ込んでいると学際的な大問題に入ってしまい、いくら長文書いても足りるものではない!というわけで、ここではかりに宗教だとしておこう。じじつ宗教はひとの社会である限りどんな社会にもあり、それぞれがそれぞれにおいて生活上のルールを提供する重要な役割を担っている。また、法に刑罰があるように、ルール一般には強制の契機(サンクション)というのがあるわけだが、それも宗教は提供する。

ただ、どういうサンクションかというのは宗教の性質による。たとえばユダヤ教みたいなセム一神教なんかは砂漠の苛烈な環境に規定されているので、律法破りは暴君のごとき神の逆鱗に触れ民族みなごろしにされる(!)きっかけになると解釈したりするわけだ。この神は全知全能なので、天網恢々疎にして漏らさずなんてものではなく*3、どんな律法破りでも見抜かれてしまう。そういう意味ではとてもキビシイ。ただ、律法それじたいは契約書(!)として明文化されているものなので、契約にないことまでは知ったことではない。そこはユルい。なので、電車が遅れるくらい何だと、そういう話になる。

他方、日本の宗教は新石器時代以降の村々の生活を基盤とする多神教である。たくさん神がいる代わりに、それぞれ認識能力に限界がある。それらは自然の事物や他の村人たちの延長線上にあるもので、怒ったり鎮まったりする。だから、そこでのルールは「他人を怒らせないこと」。それが規範として語られると「他人に迷惑をかけないこと」「他人に後ろ指を指されないこと」といった風情になる。そして、それは共同体の掟の域を出ないので、カバーされる範囲は広いし、しかも契約書なんてものはない不文律になる。だから、村人はとにかく村人の感情を害することがないように細心の注意を払うように動機づけられるわけだ。だから、電車が遅れるなどもってのほか、何百人の人を怒らせるかわかったものではないし、そんなもの容易に鎮められるわけがない、と。そこはキビシイわけだ。ただ、要するに人目に触れなければいいわけで、誰も見ていない匿名の場所ではやりたい放題。ユルユルなのだ。

さて、かなり乱暴にまとめてみたが、海部氏の言っている規範意識の強さは、さっきの話でいうところの日本宗教のキビシイ側面を指して言っているのであろうことが想像できる。しかし、そういう背景に突っ込む気がないようで、前提なしに「規範意識が強い」とやったものだから話がややこしくなってしまった。ブコメの混乱はそれが原因だ。それで、具体的な事例を挙げて「基準から外れてしまった」人をどうするかと問題提起するわけだが、そもそも分析の前提を掘り下げていないのでボールは投げっぱなしで終わってしまう。こういう職業の人の悪い癖だと思うが、あまり責められないだろうなそこは。

ともあれ、僕のコメントである。「規範意識なしに法治社会はない」。それはよし。問題は次の「同時に法を社会契約の範囲まで縮減して民を抑圧的な規範から解放するのも法治社会の基本的役割」。

じつはここ、いまではあまり適切な表現ではないと思っている。近代法治社会の、とか、近代立憲主義社会の、とか、近代社会であることを断る文句を書くべきだったと思っている。しかしまあ、なにせ100字なもので、難しいです、ハイ。

閑話休題。とにかくさっきの宗教規範みたいな規範体系があって、それをもとにした「こういう場合〜すべきである」という当為判断の積み重ねがあると。そうした土壌から国法体系という樹木は育つ、そういう順番になる。ところで、宗教規範というのはときに度を超してキビシイ。たとえばセム系社会では信仰を捨てることは神に対する最大の裏切りなので八つ裂きにされても済まないし、まして異教徒など人間ではない(!)ということで、異教徒同士がぶつかると大変な殺し合いになる。他方日本では、海部氏が言うように基準から外れた人間は社会の想定外とされていて救済されない。じゃあ、そういうのを土壌として育つ法律は、こういう度を超した厳しさに対してなにもできないのか?それが近代法治社会の態度なのか?

じつは、ここが肝心だったりする。そもそも近代というのはルネサンスが起源と言われるように、人間の解放を謳っている。要するに、人間を幸せにしないキビシすぎる規範は捨てるという選択肢を持てるようにするということだ。それが、一神教社会なら他宗教への寛容ということになるし、日本社会なら基準=ライフスタイルの多様化の保証ということになる。そのためにどうするか。憲法を作り、基本となる権利を明示して(権利章典)、それに違わぬ法律だけが有効だという原則を作る(立憲主義)。権利のベースは自己決定権なので、それを保証するため、立憲社会では民主主義が基本となる。

ただ、そうはいっても人間を幸せにしないキビシすぎる規範が民主主義のプロセスを通過して法律になってしまうことは間々発生する。それについてはどうするか?事前の対策としては、そうなりそうなときには法律をつくる奴を交代させること(政権交代)。事後策としては、そんな法律は無効にしてしまうこと(違憲立法審査)。近代法治社会というのは、こういう立憲主義の立場にたって人間の解放を実現しようという、そういう企てだ。この近代法治社会という装置*4がきちんと作動してはじめて、基準から外れた人はなんらかのかたちで救済されるだろう。

んで、元エントリの話だが、こういう人たちは実際のところ救済されていない。ということは、近代法治社会という装置がきちんと作動していないのではないかと類推できる。そして、そのことはある歴史的事実によって裏付けることができる。ある歴史的事実、つまり、半世紀もの間にわたり政権交代が実現してこなかったこと。勿論先進国唯一だ。

で、その政権交代がやっと*5実現したわけだから、これは素直に憲政史上の進歩だろうと。民主党政権が結局のところダメだったとて、そのときはまた自民党に交代させればよい、その選択肢を手にすることができたのだから。尤も、自民党が潰れなければの話だけど……。

ま、そういうコメントでしたと。

P.S.
このエントリは何も見ずうろ覚えの知識を引っ張り出して書いたものなので、突っ込み所は沢山あると思う。但し、一神教多神教のくだりは乱暴なのを前提に書いたものなので、この点に関しての突っ込みは勘弁願いたい。*6

*1:b:id:nornsaffectioにて「そのうち書く」のタグが付けられたもの。

*2:このエントリは「犯罪が少ない」「電車も宅配便も時間通り来る」「約束を守る」「信頼できる」…という列挙にはじまり、続いてメインの彼女は「普通の基準を外れてしまった」子供の話につなげている。そこから推測するに、どうやら海部氏は「規範意識」という言葉を「ひとは普通の基準を満たすべきである」という意識として使用しているようである。倫理学や法理学に親しんだ目からすればなんとも素朴で不十分な定義である。まあ誰でも守備範囲の限界というのはあるからこのこと自体は仕方のないことだと思うのだが、それが混乱の元であることには変わりない。じじつ、混乱は彼女の「日本は、全体として「規範意識」の強い社会である」という規定の当否をめぐって起きている。「日本人はすごくルールを守ろうとする」と言ったところで、そのルールが何なのかわからなければはじまらないのだ。

*3:なにしろ、岩場の山羊が子を産む瞬間とか、そういうことまでなにもかも知っているっているわけだから、そんな相手の目を盗むなんてできたものではない。「疎」でないどころか「網」ですらないわけだ。強いていえば鉄鍋か?

*4:僕はダールに倣ってポリアーキーと呼びたいが、それはまた別の話。

*5:細川政権のときみたいな済し崩し的にでなく

*6:てか、書いてきても無視する。面倒くさいので。

プロレスも嫌いではない(比喩的な意味で)

 何だか、またhamachanと池田信夫氏の間の火種が燻っているみたいだ。

天下り氏(最近は学者でもないただの天下りに戻ったようです)は勘違いしているようだけど、これは子ども手当のことですよ。私も舛添氏の趣旨に賛成で、今は所得制限のある児童手当を一律の子ども手当にするのは、所得分配には逆進的になります。

先日も民主党の勉強会で「一律の支給はおかしい」といったら、直島さんが「いやこれはバウチャーみたいなもので・・・」と意味不明の言い訳をしてましたが、彼らもバウチャーのほうがいいという意識はあったのでしょう。ただバウチャーには組合が反対だから、ああいいう意味不明なバラマキになったものと思われます。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/cmt/16a36fbc07184fd578750496967f1ecb

突然池田信夫blogからいっぱい人がやってくるので何が起こったかと思って見てみたら、
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/cmt/16a36fbc07184fd578750496967f1ecb

コメントの最後のところで、子ども手当がどうとか書いているんですね。
私へのたぎるような悪意だけは明確に理解できるのですが、そのいってることが全く理解できないのですが、どなたか説明していただける方はいませんか?
趣旨は正しいが表現が政治的に正しくない舛添発言: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

 まあ、言われた本人には悪いけど第三者としてはちょっと面白い展開なのでまた一戦交えるのを見てみたい気もする。ただ、立場的にちょっと気になることがある。ひとつは、上記引用先で池田氏を焚きつけた人が近頃周囲に見られること。もうひとつは、過去の経緯。僕はhamachanと過去に2回やり合っている。

  1. 教育バウチャーで(「よはん」はid:nornsaffectioが他所で使う別名)→離脱と発言再び: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
  2. 中山発言問題で→日本教職員組合の憲法的基礎: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

あの人ぜったい僕のこと嫌ってるだろうからなあ(苦笑)。(嫌ってないそうなので消しておく。)すると僕は池田氏やその取り巻きと一緒にされる可能性があるわけで、そうなったらさすがにちょっと不本意だから、ひとこと弁明しておく。

 僕も池田氏の言ってることはちょっとよくわからない。民主党子供手当てが所得分配には逆進的になる、ってのは、それはそのとおりなのだが、そもそも舛添氏は派遣村批判の流れでものを言っているわけで、あれを子供手当てのことだというなら子供手当ての所得逆進性が派遣村とつながってくることになる。だが、そこに直接的な関係性を見出すのはちょっと無理筋という気がする。*1そこがよくわからない。もうちょっと詳しく突っ込んで説明してもらいたいところだ。

 一方濱桂ちゃん濱口先生だが、舛添氏の大きな政治的まちがいを認めつつワークフェア政策への言及に力を入れているあたり、この政策を宣伝するきっかけに舛添発言問題を利用しているのは間違いなかろうと思う。それで、発言趣旨の正しさにわざわざ言及があったのだと思うが、それが正しかろうと舛添氏が規範あてはめの対象を大きく誤ったのは間違いないわけで、先生のこのあたりの空気の見誤り方にちょっと困ったものを感じないではない。過去のこともあるしな。

 ともあれ、どのみちこれは発言問題の本質とは壁一枚以上隔てた諍いなわけで、結局僕としては勝手にやってくださいとしか言いようがなかったりする。あしからず。

追記

 濱口先生から直接コメントを頂いた。嫌われてないそうで。こちらに悪意がないのは伝わっていたようでなにより。そもそも、悪意があったら自分で矢面に立って書き込んだりなんかしないからね僕は。

 あと、hamachanブログの方で、池田氏の言わんとしていることが何となくつかめてきた。生活保護の母子家庭加算、ねえ…。ますます派遣村の人たちと関係ないような…。

 ともあれ、濱口先生、プロレスも程々に。

*1:派遣村の人たちが所得制限切られて得する層とは思えないし、そうであれば舛添氏が彼らに「金を使う気はない」と言ったことは意味不明だろう。

リアリズムを求めるなら、そう名乗る必要はない。見ればわかる。

 またぞろ麻生首相の舌禍事件である。

http://www.47news.jp/CN/200908/CN2009082301000685.html
はてなブックマーク - 首相「金ないのに結婚するな」 学生イベントで - 47NEWS(よんななニュース)

 僕の感想はブクマコメントの通り。

他の自民党議員のにしてもそうだが、「失言」内容そのものよりも、いま社会に満ちている怨念を察知できない暢気さの方が政権与党として余程致命的じゃないか。>メタブへ b:id:nornsaffectio:20080824

そして、利口ぶりたいだけの未熟な輩はこれがリアリズムとか嘯いて「言ってることは正論」とか反応する。言ってることの成否が問題だと思っている時点で決定的に現実=リアルが見えていない。どこがリアリストかと。  b:id:nornsaffectio:20080824

 さて、このコメント、一見しただけではだれがリアリズムを嘯いているのかと疑問を持たれるだろうと思うので補足してみる。

 まあ、実生活のなかで、実際にこういう断りを入れたうえで発言内容の確かさを言い立てる人がいたのである。この麻生発言絡みではないけど、自民党崩落モードに入ってからのことなのでまあだいたい状況は共通している。そのときは「言ってることは正論」という反応はブコメ方面にはなかったが、今回は丁度いい具合にこの種の反応が相次いだので、それを利用して少し当てこすってみた。有村君風に言うと「これはのぶい」というやつだ。

 まあだいたい、政権与党の要職がやらかした不用意な発言を「失言」とことさらに言い立てるのは、それ以上の意味がない限りにおいてあまり品のいいことではない。だから、平時にあれば「また失言叩きか」という反応には一定の正しさがある。ただし、それはあくまで発言のconstativeな、一次的な意味だけが問題とされるとき、端的には平時に限られる。

 裏を返せば、平時でないとき、つまり今般のような社会が危機的状況に置かれている特殊な状況下においては事情が違ってくるということだ。こういうとき、かれらの「失言」は、言葉どおり意味するところとは別に、この社会の状況にたいするperformativeな意味を持つ。

 たとえば、これである。

おそらく発言の趣旨は、働こうとする人々、働くために教育訓練を受けようとする人々にこそお金を渡すべきで、働こうが働くまいが一律にはした金をばらまくベーシックインカムみたいな発想は認められない、という趣旨だったと思うんですね。近年の先進国共通の政策動向としてのワークフェアを、いささか大衆迎合的な表現でやってしまったというところでしょう。その意味では、趣旨としてはきわめてまっとうな発言であって、これを非難するなら、どういう社会システムを構想するのか、きちんと示す義務があります。とはいえ・・・。

ただ、それを派遣村批判という形で喋ってしまったのは、いささか政治的に正しくなかったといわざるを得ません。まあ、選挙戦というのは、どうしても表現が粗雑になりがちなんでしょうが、これはやはりまずかった。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-a50c.html

 先の舛添発言についての話である。これは、濱口先生の表現でいうなら、舛添氏の発言*1は、発言の趣旨そのものは正しいが、政府の要職にある人の発言として政治的に正しくない発言ということになる。厚労相としてのペルソナを括弧に入れ、発言の趣旨そのものを純粋にくみ取った場合、それはいわゆるワークフェア政策のことを言っていることになる。政策の提示なのだから、かの政策への支持不支持はともあれ、別におかしいところはない。

 しかし、それだけが問題ではないのである。厚労相としてのペルソナがあるからだ。その社会的立場に鑑みてかの発言をみる場合、それは厚労相による派遣村批判という意味を持つ。つまり、厚労相派遣村をどう見ており、それについてどのような価値判断を抱いているかということを同時に示しているわけだ。それを素直に解釈するならば、舛添厚労相派遣村のことを、雇用システムの不備あるいは旧政権の失政による社会不安とは見ておらず、たんなる怠け者の自業自得と見ていると、そういう意味に受け取ることができる。そして実際にそう受け取られ大ひんしゅくを買ったわけだ。舛添要一厚生労働大臣は、派遣村に象徴される雇用不安の蔓延した時代の厚生労働大臣として、その雇用問題について責任を負うつもりはないと、そういうことになってしまった。

 きっと、かつてのもっと豊かな時代に釜ヶ崎とか山野などでみられたようなステレオタイプ貧困層と混同してしまったのだろう。現実をまっすぐに見るよりもパターンに寄りかかった認識をして政治的判断を誤ったのである。童話の狼少年は日頃のウソつきが祟って実際に狼に襲われた際村民に無視され助けてもらえなかった。このとき村民はパターンに寄りかかった認識で判断を誤ったのだ。ところが村民の認識に反し、狼がやってきたのは事実であった。このとき、狼に襲われるのは件の少年ばかりではなかったはずだ。この村民や舛添氏は、現実をまっすぐ見ようとしていない。かわりに、すでに失効した過去の認識、ステレオタイプに囚われているのだ。いうまでもなく、こういうのをリアリズムとは呼ばない。偏見である。

 要するに、囂々たる非難は正しかったのである。別に批判者はワークフェア政策の是非を問題にしていたのではない。その政策を担うべき当の厚労相がとんだ偏見に囚われていることを問題にしていたのだ。

 ところで、当エントリにて僕にあてこすられた件の人物は、この舌禍事件を完全に誤解して、騒動をワークフェア政策にたいする批判だと受け取っていた。*2そして、続けて「反対するなら対案を出せよ」とキレ気味に語っていた。*3一体誰にキレているのか知らないけれども(苦笑)、とりあえず、少なくとも僕の見る限り、件の舛添発言絡みでワークフェア政策を批判した人は主流ではなかったように思う。*4

 ところで麻生発言である。あれは内容的にも微妙だが、社会も党も危急を要するこの時期、この情勢について直接責任を負うべき立場にある口から、まあ緊張感のない発言*5が出たものだと思う。いまや貴方がそういう語り口をしているだけで腹が立つという空気が支配的になるくらい、情勢は悪化しているのだ。怨念に対する不感症が自民党全体を蝕む状況なのだから、それ相応の運命が待っている。

 そして、それ以上に怨念が読めないのは自称リアリスト諸氏なわけだが、精々そのつまらない自己顕示欲をだらしなく漏らして人間関係を踏み誤らないように願いたい。意外な人を怒らせてるかもよ。

*1:とりあえず、このエントリでは文字通りの発言があったものとみなす。

*2:因みに彼は派遣村のことを釜ヶ崎的なものと完全に混同している。徹底的にリアルが見えないらしい。残念なことだが、博識の馬鹿というは少なくないのである。

*3:いうまでもなく、まんまhamachanエントリの受け売りである。この彼の認識姿勢がどういうものかよくわかるエピソードだと思う。因みに、引用部分のように語った濱口先生御自身は、かならずしもこの騒動でワークフェア政策批判が行われたと認識されていたわけではなかったと思われる。だから後半部分で「政治的に正しくない、残念だ」と書かれたのだろう。

*4:それどころか、知らない人が大半だろう。一般人は政策の専門家ではないし、そうである必要もない。

*5:報道とネット、どちらが正確であるにしてもこの点において大差ない。