親鸞の内なる他者:大学のアジール性をめぐって(10/08)

他のOECD各国では、大学が(資本や商業主義からの要求など)世俗の要求から切り離された空間であることを確保するために腐心している。その本質的価値がわからない日本人は大学をだいなしにしてしまう。 / Togetter - 「"大学改革"が… http://htn.to/mhAPte
posted at 16:58:41

大学は本質的にアジール、つまり駆け込み寺的な空間であって、一旦そこに入ったら世俗のしがらみから解放され、知的な意味ではなにをやってもOKの自治的空間であると。だから高度な研究も出来るのだ、…と誰かが言ってたっけ…
posted at 17:01:42

思えば、古今東西"大学的なもの"というのは、多かれ少なかれこのアジール性みたいなものを確保していて、それゆえの学問的成果を生み出している。文字通りの独立的自治区だった南都北嶺こと東大寺興福寺比叡山なんかはその最たるものだろう。
posted at 17:04:50

それがなかったら、たとえば凝念みたいに大風呂敷を広げた研究をすることなんてできなかっただろうし、また山を下りて法然のところに聴講に行くなんてこともできなかっただろう。鎌倉仏教の破天荒な発想転換は、あの強大な自治区なくしては生まれなかったはずだ。
posted at 17:10:09

その点僕が面白いと思うのは、やはり親鸞だったりする。彼も法然聴講生の一人だったわけだが、親鸞の場合、自治区だった学都で得られた教養を背景に持ちつつ、実践的にも学問的にも地理的にもどんどん遠く離れた場所に行った。たとえば教行信証には法華経の引用は全然なく、かわりに涅槃経が多い。
posted at 17:16:53

その意味では、教行信証というのはオーソドックスかつオーセンティックな書物だ。これは明らかに叡山で得られた学知を活かしたものでありつつ、はっきりとそこに認識論的切断を刻み離脱した書物でもある。逆に言えば、それを可能にする土壌が古代の学都にはあったということ。
posted at 17:25:57

歎異抄にいう「南都北嶺にゆゆしき学匠達…」という文言も、そういう含意を念頭に置かないと突拍子もない平板な理解に陥ってしまうんじゃないだろうか。単純に否定したものでも肯定したものでもない。離脱はしているが、依拠もしている。その両義性。
posted at 17:32:41

吉本隆明柄谷行人は理論と実践という観点からそれぞれ親鸞に注目しているが、かれらの問題意識に通底するのもやはり大学的なものをめぐっての両義性にあったように思う。吉本の影響を受けた世代の人のなかには単純に無知に逃げ込む人がいるが、そういうのもどこか歎異抄の誤読に通じるところがある。
posted at 17:45:28

親鸞アジール空間を離れて世俗のなかに遠く分け入っていったが、関東という途方もない辺境(!)で教行信証を執筆できる学知を失わなかった。(尤も、一切経は関東でも参照はできたらしい。)また、それを可能にしているのもアジール空間における経験ではなかったかと思っている。
posted at 18:00:46

同じような意味で、大学のアジール性というものも、そこに参入する契機とともに離脱する契機も含め、考え直してみる時期に来ていると思う。やはり大学はアジールでなくてはならないのだ。
posted at 18:03:10

ひょっとして往還二廻向義にもそういう含意があったんじゃないかと考えるとちょっと面白い。
posted at 18:05:40

世俗のしがらみのなかにあって、なおかつそれをつねに相対化し得る内的他者。世俗からアジールアジールから世俗の恒常的往復。
posted at 18:07:46

大学が自治的空間でなければならないのも、そういう往還というか、他者の経験のためだろう。他者がなければ知はだめになってしまう。
posted at 18:15:39

かつての大学でいえば、右翼とか左翼とかフェミとかエコとかが入り交じって、それぞれが政治的につぶし合うかわりに主張し合い、それぞれが一覧され、比較検討される。そういう猥雑さのなかでしか強靱な知は育たないのは確かだ。
posted at 18:17:23

一方で、一覧される以前に、じっくり時間をかけ系統的な知をインプットする時間も必要だ。はてなのようなネットサービスがフォローできないのはそこだろう。そこには前者のような他者の言葉があふれる猥雑さはあるかもしれないが、系統知が育たない。それはやはり書物にあたらないとだめだ。
posted at 18:18:28

その意味では、日々はてブにかじりつき、何十ものブクマにいそしんでいるヘビーユーザーは畢竟、辺地懈慢の化土から出られないだろう。…別にはてなーの悪口を言いたいわけではないが。
posted at 18:23:20

似たようなことはネット上のソーシャルサービス一般にもある程度いえるんじゃないか。たまたまはてなが一覧性という意味で典型的だから名前を挙げたけど。
posted at 18:24:35

やはり大学の代わりになるもんはそうそうない。
posted at 18:24:58

だいいち、系統知のインプットがなければ他者との差異も際立たなくて、結局は自分に近い立場の有力な他者に巻かれるのがオチだから、内的他者なんて確保しようがない。
posted at 18:29:38

大学の危機ということが言われるが、一番端的に表れているのはそこなんだろうね。系統知も他者への意識も、どちらも同時に惰弱になっている。
posted at 18:31:37

学生の家庭から直接高い金をふんだくる代わりに徹底的に「お客様」扱いして就職の世話して送り出すとか、そんなことをしていれば系統知も他者への意識もなくなって当たり前。アジール性が排除されれば知的空間そのものが衰弱死する。知が直接からむ部分はフリーがのぞましい。
posted at 18:48:56

そもそもの話、高い料金を取る駆け込み寺が駆け込み寺として機能すると思うかと。そんなところ、金を出した者の言い分で統制されるに決まっている。困ったとき駆け込めない駆け込み寺。なるたけ大学に予算をつぎ込む諸外国のポリシーは、そうならないための方策なわけだ。
posted at 18:54:15

これから入学しようという学生(ましてやその親)は当然学問的に無知なので、かれらの関心はその後、つまり就職しかない。それを直接の「お客様」にしようというのだから、必然的に大学は就職予備校と化す。学問は単位を取るためだけ。政治や市民運動などもってのほか。こうして均質空間ができあがる。
posted at 19:05:44

工学部だって商品化される可能性のある研究しかしないんだったら革新的な技術なんて開発できるわけありませんわな。どうやったって既存の認識の枠組みに忠実な、面白みのないものになってしまう。
posted at 19:08:33

余分なことをすること、「遊び」を持つことの重要性は、ホイジンガなどを通して海外のインテリ世界ではよく知られているが、その点日本人はおそらく世界一その重要性を認識していない。
posted at 19:10:30

たとえば日本語で「大学における遊びの重要性」という話をしたとすると、しばらくは本来の趣旨で議論されていても、議論のプレイヤーが増えるうちに、どこかの時点で「酒飲んで女抱いて青春することのなにが重要か」といった低レベルな話に矮小化される。そういう意味じゃないって。
posted at 19:16:58

系統知を欠いた議論というのはかくも矮小で均質化されたものになってしまうというオチ。面白くも何ともないけど。
posted at 19:19:55