小沢一郎の政治手法なるものについて/あるいは保守本流政治システム3.0

市民としての小沢と、政治家としての小沢

だが、さすがにもうブームは一段落したので、ようやくこの「政治とカネ」の呪縛を離れて小沢一郎という人の資質を論ずることが出来そうに思う。そこでもう一度問を立てなおそう。小沢一郎という人はいかなる政治手法を用いていたのか。そしてそれは求められるべきものだったのか。
posted at 20:20:10

小沢一郎は旧自民党保守本流の系譜の末流といわれる人で、この点をつかまえて金権政治家というレッテルを貼られ続けてきた。それは、公金を管理する政党の要職にあって、公金を利用して勢力を拡大する手法をさしており、じじつこの手法で小沢氏は党内勢力を拡大してきた。
posted at 20:26:18

ただし気をつけねばならないのは、公金を勢力拡大に利用したからといってそれは職務権限的として法的に不当とは限らないということ。そして小沢氏の場合特徴的なのは、それが不当どころかまったく正当であった可能性すらあるということ。この点が話をややこしくしている。
posted at 20:28:40

小沢氏は、公金を使って自分の権力を拡大するということを、手段において何らやましいところのない方法でやっていたと仮定してみよう。その場合、法的には何の問題もないので、検察から操作対象とされるいわれはないし、悪し様に報道されるいわれもない。ところが…
posted at 20:33:58

一方で、公金を党内勢力拡大のために利用しているという事実が厳然としてあり、その政治手法そのものが選択されるべきものか否か問われる場合というのは別問題として存在している。要するに、法的に問題ないとして、だからとて有権者がかれを支持すべき理由になるのかと、そう問われる局面があるのだ。
posted at 20:36:41

プロパガンダの罠ーーふたたび「政治とカネ」

「政治とカネ」という言葉は、法的問題と政治的問題を意図的に混同させ、政治意識を特定方向にドライブさせるところがある。それは明白なプロパガンダであり、否定されるべきものだ。その一方で、それはそれとして公金の政治利用の是非を有権者として判断しなければならないのは事実であった。
posted at 20:41:17

つまり何が言いたいかというと、今般の小沢ブームは、「政治とカネ」という言葉のプロパガンダ性を批判するものでありながら、同時に否定的な姿勢でこのプロパガンダに乗せられるものであった可能性があるのではないかと。巨人が嫌いなあまりかえって日テレの巨人戦に注視するような。
posted at 20:44:34

まことにプロパガンダというものは罠として周到だ。それは、僕らが「罠だ」と見抜いたところで、それはそれとして罠にはめてしまうところがある。僕らは「政治とカネ」という言葉に乗せられた瞬間から、アンチ小沢になるか小沢シンパになるしかなかった。結局僕らは報道機関の筋書きに乗せられたのだ。
posted at 20:48:12

こうした罠を逃れるためには、もっとドライな態度が必要だった。つまり、小沢一郎という人や、彼に批判的な人(たとえば仙石氏)について無関心を決め込む(!)こと。人物に無関心でありつつ政治的構造そのものをシステムとして問題にすること。ドラクエの勇者のように中性的なものとして見ること。
posted at 20:54:31

言ってみれば、それは一種の現象学的還元だ。
posted at 20:54:50

保守本流政治システム3.0

いまや僕らは、小沢一郎という人のことを、いや小沢氏だけでなく菅総理や仙石氏らのことまでもいったん忘れた(!)うえで、そのうえで小沢的な政治手法、菅的な政治手法のありようを問題にしなければならない。
posted at 20:57:26

小沢氏の政治手法は、政治資金集配・票田開拓システム。田中角栄によって開発され、竹下・金丸によって簒奪されマイナーチェンジされたものを、使用実績を踏まえてバージョンアップしたものだ。保守本流政治3.0とでも言ってみようか。
posted at 21:05:27

このシステムの実績は十分だろう。これで竹下派自民党において圧倒的多数派を形成したし、民主党においては小沢グループの規模を30人クラスから150人クラスに拡大した。効果は絶大。さて、ところでこのシステムは利用し続けるべきものなのか?
posted at 21:09:47

僕らは保守本流政治システム3.0の是非を判断したのか?ーー哲学的正しさと歴史的判断

じつはこの点がシビアに問われたのが先の代表選だったのではないかと僕は思っている。メディアのプロパガンダを余所に、この点は政治の構造的認識として無意識のうちに問われていたのではないか。そして、その問いは確かに党員有権者の判断に掛けられ、結論を出されたのではなかったか。
posted at 21:14:50

要するに、小沢氏の所有する保守政治システム3.0は今後稼働させるべきものなのか。それが小沢氏にたいする好悪感情とはパラレルなものとして確かに問われた。そしてそれは、兎にも角にも選挙システムによって「捨てるべし」との結論が出された。問題は、それが熟議の末の結論ではないこと。
posted at 21:18:24

熟議的民主主義の立場の人が見るなら、こんな判断プロセスは不当である。ひとつのシステムをどうするかという重要な問題は、代表選などという性急な展開を経るのでなく、すべての立場の者同士熟議を重ねた末に出されるのでなければならない。こうした立場には確かな理がある。
posted at 21:21:54

ただ、僕らにはこういう熟議的民主主義の立場を貫徹するわけにいかない事情がある。時間がないのだ。そんなことをしている間に僕ら自身の生活が崩壊してしまうのではたまらない。だから、政治哲学的に正当な結論ではなく、とりあえず暫定的に結論を出すことが要求される。選挙はそのためにあるのだ。
posted at 21:24:28

ともあれ小沢的政治手法=保守政治システム3.0は廃棄すべしという政治判断は成立した。勿論それは暫定的結論であり、哲学的に正当な結論ではないので、まちがっている可能性は残る。
posted at 21:29:31

判断はつねに歴史的なので、あとの時代になってから「この時の判断はまちがっていた」ということになる可能性はつねに残り続ける。まして今般の場合、廃棄対象が効果絶大のシステムなので、ただでさえもったいない(!)。国家危急の時期にそれを手放して良かったのだろうか?
posted at 21:32:53

その当否は、やはり分析的に判断するしかないだろう。
posted at 21:35:38

ふたりの「ハブ的人物」ーー竹下登小沢一郎

小沢的政治手法=保守本流システム3.0は効果絶大だ。しかも次期バージョンから汚職防止機能も実装予定。勢力拡大は政治家として当然の原理なので、政治家としてこれを利用しない手はないはずだ。だが、このシステムには問題がある。
posted at 21:37:48

保守本流システムの問題。それは、資金流通のためにはハブとなるべき人物が必要で、かれに幹事長などの要職を務めてもらわなければならないこと。このとき、システムの性質はハブ的人物個人の資質に大きく依存してしまう。
posted at 21:39:48

たとえば竹下登という人は典型的なハブ的人物だった。彼は言っていることがわけわからないかわりにやたらに懐が深く、いかなる清濁も併せ飲んでしまう。とにかく陳情はよく聞いてくれる。だから、党内反主流派はもちろん共産党幹部に到るまで竹下詣でを欠かさなかった。問題は、聞きすぎること。
posted at 21:45:57

過ぎたるは及ばざるが如しとはよく言ったもので、陳情は聞きすぎると判断できなくなってしまう。いくら竹下の懐が深いからといって深刻な政治対立が解消されるわけでなし。結局、消費税導入に際しては事を荒立てる羽目に陥ったし、ばら撒きすぎたリクルートコスモス株をめぐって騒動が起きた。
posted at 21:49:35

小沢氏の場合はどうか?彼の場合は逆で、そのストイックすぎる性格ゆえ、人間的魅力は豊富な反面話しかけづらく、人が寄らない。陳情もそれほど集まらないのでいつでも彼は無知の座敷牢の中。それでも判断はしなければならないので判断するのだが、結果的に話を聞いていないので独裁者呼ばわりされる。
posted at 21:55:51

そのおかげで、本来政治家個人のキャラクターとは独立に存在するものであるはずの保守本流政治システムは、つねに「小沢一郎の政治手法」と、彼個人の名前で呼ばれ続ける。そして、小沢氏個人に関する判断がそのままシステム選択の踏み絵になってしまい、結局優秀なシステムを稼働させる機会は乏しい。
posted at 21:59:22

その果てにシステムそのものの廃棄が決定されたのだとすれば、なかなか不幸なところがある。結局現時点において、その決定が当たっているのかいないのか、誰にもわからないからだ。ただ、これほどにハブ的人物個人の資質に依存してしまうのがシステム的に弱いところなのは確かだろう。
posted at 22:02:04