可罰的違法性論について
ごぶさたしております。
ええと、刑法の話ですが、前田雅英教授(首都大学東京)をめぐるエントリーで可罰的違法性について不正確な記述があったのでコメントしたのですが、例によって舌足らずになったのでちょっと補足。*1
http://devprx-93485234.blog.ocn.ne.jp/dick/2010/03/post_f33c.html
コメントで僕は、可罰的違法性論をあたかも構成要件該当性→違法性→責任という順番で論じる体系(団藤・大塚的な規範的アプローチ)を前提し、そのなかで2番目の段階で可罰的違法性が検討されるというように読める記述をしてしまっておりますが、じつはそれだけでなく、構成要件該当性の判断において可罰的違法性論が援用される場合があります。というか、この理論は違法性全般にかかわる理論なので、違法性が論じられる可能性のある場合はことごとく関連があります。むしろ、構成要件該当性の判断にあたって援用されることの方が多いでしょう。
ただ、その場合でも「一見条文に当てはまっていなくても立法趣旨からして処罰すべき行為であれば構成要件に該当する」という趣旨で言われることはありません。もともと可罰的違法性論は、違法一元論、つまり民法や行政法などで違法とされる行為と刑法で違法とされる行為を一元的に捉え、民法で違法ならばそれは違法性のある行為なのだと考える違法観を前提しています。その意味で、たとえば不倫をすることは不貞にあたり離婚事由になるので違法性があるということになりますが、刑事的に処罰されることはありません。それは処罰される条文がない*2からですが、じゃあそれは違法性がないのかというと、日本の法律が違法と考えているのだから、違法性はあると。でも、違法だからといってそれにたいする各法律の対処の仕方はそれぞれの法律次第なので、刑法が処罰す可(べ)きと、つまり可罰的とみなして条文に盛り込むのでない限り、違法であっても処罰はされない。その場合、不倫することは違法性があっても可罰的違法性はないということになる。こういう見方をする場合、刑罰法規の構成要件は、たんに違法類型なのではなく可罰的違法類型なのだと、そういうことになるわけです。*3
そういうわけなので、可罰的違法性論はそもそも最初から処罰範囲縮減理論なのです。構成要件の形式性を否定する立場の人(近代学派)ならば「一見条文に当てはまっていなくても立法趣旨からして処罰すべき行為」だから処罰されるべきと考えることも論理的には可能ですが、その場合構成要件理論は採用しないでしょう。構成要件の概念には類型性(明白な文言による違法行為のリストアップ)が含まれるわけですが、その類型から外れる行為の違法性を認めるわけですから。つまり、「一見条文に当てはまっていなくても立法趣旨からして処罰すべき行為」と判断することを「構成要件に該当する」とはいいません。だから、「一見条文に当てはまっていなくても立法趣旨からして処罰すべき行為であれば構成要件に該当する」という記述はありえないのです。構成要件理論を前提する限り、可罰的違法性論は必然的に処罰範囲縮減理論になります。
ところが、前田教授は違法一元論が可罰的違法性論の理論的前提にあることについて無理解で、刑法で違法とされることが違法性なのにわざわざ可罰的違法性と呼ぶのは議論を煩雑にするから議論に実益がなく、違法性が相対的だと考えるほうが簡単だと言っています。*4そういう意味では元エントリは前田説理解に関しても不正確なのですが、嫌いな前田雅英の理論の弁証を僕がする義理はないので突っ込むのをやめました。ただ、前田雅英は実質的に、故・藤木英雄教授の実質的犯罪論を継承した立場にあり、藤木教授の学説において可罰的違法性論は枢要なので、その意味では可罰的違法性論の鬼子のような立場にあるということは言えると思います。だから、
その意味で、前田教授は可罰的違法性の理解に関する限り、伝統的な理解を引き継いだに過ぎません。ただ、前田説の体系は構成要件該当性の形式判断を違法性判断に先行させるという順番を採らないので、彼が可罰的違法性論を援用すると構成要件の実質化を招来するというトリックが生まれるわけです。
と書いたのも、趣旨においてそんなにおかしなことは言っていないと思っています。
追記
元記事、削除してしまわれたようです。代わりに、その顛末がアップされています。
http://devprx-93485234.blog.ocn.ne.jp/dick/2010/03/post_db12.html?cid=24576228#comment-24576228
前田雅英批判の趣旨に関しては共感できる部分も多かっただけに残念なのですが、こればかりはあちらの判断されるべきことなので仕方がありません。
追記2
再掲されたようです。感謝。