【真宗論Extra】曽我量深「往還の対面」レビュー(10/28)

曽我量深師の「往還の対面」を読んでるなう。半世紀近く前の講話集だが、クリティカルだ。
posted at 22:36:16

現代思想や哲学やってる人は、西田幾多郎鈴木大拙はよく読むだろうが、曽我師に注目する人は少ないだろう。もったいない。
posted at 22:39:17

貨幣の哲学で知られる今村仁司が生前清沢満之に注目していたが、清沢師の弟子筋に当たる曽我量深の読解もその筋で辿るのもいいかもしれない。
posted at 22:45:48

たとえば「往還の対面」では、単なる阿弥陀仏は個人の抱く観念だが、南無が付くとそれは現行になって一切衆生に廻向される、云々と書かれている。
posted at 22:51:53

観念は決して単なる妄想ではない。貨幣がそうであるように、交換を通じて価値体系の礎となる。無限への回路。曽我師の言葉は、親鸞における南無=帰命の論理がそのような特異点をさしていると思わせるところがある。
posted at 22:59:07

まるでスピノザじゃないか?
posted at 22:59:46

原始仏教に浄土や阿弥陀の観念がなかったということはつとに指摘されていることだが、シャカムニの悟りを求める実践が無限への回路の「発見」を導いているのだとしたら、それはじつは小さな問題かもしれない。また、そういう地点こそユニバーサルな何かを持っているのではないか。
posted at 23:17:19

「往還の対面」は、釈尊に帰ることにより仏教は小さな宗派根性を超え世界に眼が開かれると説いて結ばれているが、じつはもっといろいろなものを結びつけるポテンシャルを持っているかもしれない。普遍性とはそういうものだろう。
posted at 23:29:15

親鸞の内なる他者:大学のアジール性をめぐって(10/08)

他のOECD各国では、大学が(資本や商業主義からの要求など)世俗の要求から切り離された空間であることを確保するために腐心している。その本質的価値がわからない日本人は大学をだいなしにしてしまう。 / Togetter - 「"大学改革"が… http://htn.to/mhAPte
posted at 16:58:41

大学は本質的にアジール、つまり駆け込み寺的な空間であって、一旦そこに入ったら世俗のしがらみから解放され、知的な意味ではなにをやってもOKの自治的空間であると。だから高度な研究も出来るのだ、…と誰かが言ってたっけ…
posted at 17:01:42

思えば、古今東西"大学的なもの"というのは、多かれ少なかれこのアジール性みたいなものを確保していて、それゆえの学問的成果を生み出している。文字通りの独立的自治区だった南都北嶺こと東大寺興福寺比叡山なんかはその最たるものだろう。
posted at 17:04:50

それがなかったら、たとえば凝念みたいに大風呂敷を広げた研究をすることなんてできなかっただろうし、また山を下りて法然のところに聴講に行くなんてこともできなかっただろう。鎌倉仏教の破天荒な発想転換は、あの強大な自治区なくしては生まれなかったはずだ。
posted at 17:10:09

その点僕が面白いと思うのは、やはり親鸞だったりする。彼も法然聴講生の一人だったわけだが、親鸞の場合、自治区だった学都で得られた教養を背景に持ちつつ、実践的にも学問的にも地理的にもどんどん遠く離れた場所に行った。たとえば教行信証には法華経の引用は全然なく、かわりに涅槃経が多い。
posted at 17:16:53

その意味では、教行信証というのはオーソドックスかつオーセンティックな書物だ。これは明らかに叡山で得られた学知を活かしたものでありつつ、はっきりとそこに認識論的切断を刻み離脱した書物でもある。逆に言えば、それを可能にする土壌が古代の学都にはあったということ。
posted at 17:25:57

歎異抄にいう「南都北嶺にゆゆしき学匠達…」という文言も、そういう含意を念頭に置かないと突拍子もない平板な理解に陥ってしまうんじゃないだろうか。単純に否定したものでも肯定したものでもない。離脱はしているが、依拠もしている。その両義性。
posted at 17:32:41

吉本隆明柄谷行人は理論と実践という観点からそれぞれ親鸞に注目しているが、かれらの問題意識に通底するのもやはり大学的なものをめぐっての両義性にあったように思う。吉本の影響を受けた世代の人のなかには単純に無知に逃げ込む人がいるが、そういうのもどこか歎異抄の誤読に通じるところがある。
posted at 17:45:28

親鸞アジール空間を離れて世俗のなかに遠く分け入っていったが、関東という途方もない辺境(!)で教行信証を執筆できる学知を失わなかった。(尤も、一切経は関東でも参照はできたらしい。)また、それを可能にしているのもアジール空間における経験ではなかったかと思っている。
posted at 18:00:46

同じような意味で、大学のアジール性というものも、そこに参入する契機とともに離脱する契機も含め、考え直してみる時期に来ていると思う。やはり大学はアジールでなくてはならないのだ。
posted at 18:03:10

ひょっとして往還二廻向義にもそういう含意があったんじゃないかと考えるとちょっと面白い。
posted at 18:05:40

世俗のしがらみのなかにあって、なおかつそれをつねに相対化し得る内的他者。世俗からアジールアジールから世俗の恒常的往復。
posted at 18:07:46

大学が自治的空間でなければならないのも、そういう往還というか、他者の経験のためだろう。他者がなければ知はだめになってしまう。
posted at 18:15:39

かつての大学でいえば、右翼とか左翼とかフェミとかエコとかが入り交じって、それぞれが政治的につぶし合うかわりに主張し合い、それぞれが一覧され、比較検討される。そういう猥雑さのなかでしか強靱な知は育たないのは確かだ。
posted at 18:17:23

一方で、一覧される以前に、じっくり時間をかけ系統的な知をインプットする時間も必要だ。はてなのようなネットサービスがフォローできないのはそこだろう。そこには前者のような他者の言葉があふれる猥雑さはあるかもしれないが、系統知が育たない。それはやはり書物にあたらないとだめだ。
posted at 18:18:28

その意味では、日々はてブにかじりつき、何十ものブクマにいそしんでいるヘビーユーザーは畢竟、辺地懈慢の化土から出られないだろう。…別にはてなーの悪口を言いたいわけではないが。
posted at 18:23:20

似たようなことはネット上のソーシャルサービス一般にもある程度いえるんじゃないか。たまたまはてなが一覧性という意味で典型的だから名前を挙げたけど。
posted at 18:24:35

やはり大学の代わりになるもんはそうそうない。
posted at 18:24:58

だいいち、系統知のインプットがなければ他者との差異も際立たなくて、結局は自分に近い立場の有力な他者に巻かれるのがオチだから、内的他者なんて確保しようがない。
posted at 18:29:38

大学の危機ということが言われるが、一番端的に表れているのはそこなんだろうね。系統知も他者への意識も、どちらも同時に惰弱になっている。
posted at 18:31:37

学生の家庭から直接高い金をふんだくる代わりに徹底的に「お客様」扱いして就職の世話して送り出すとか、そんなことをしていれば系統知も他者への意識もなくなって当たり前。アジール性が排除されれば知的空間そのものが衰弱死する。知が直接からむ部分はフリーがのぞましい。
posted at 18:48:56

そもそもの話、高い料金を取る駆け込み寺が駆け込み寺として機能すると思うかと。そんなところ、金を出した者の言い分で統制されるに決まっている。困ったとき駆け込めない駆け込み寺。なるたけ大学に予算をつぎ込む諸外国のポリシーは、そうならないための方策なわけだ。
posted at 18:54:15

これから入学しようという学生(ましてやその親)は当然学問的に無知なので、かれらの関心はその後、つまり就職しかない。それを直接の「お客様」にしようというのだから、必然的に大学は就職予備校と化す。学問は単位を取るためだけ。政治や市民運動などもってのほか。こうして均質空間ができあがる。
posted at 19:05:44

工学部だって商品化される可能性のある研究しかしないんだったら革新的な技術なんて開発できるわけありませんわな。どうやったって既存の認識の枠組みに忠実な、面白みのないものになってしまう。
posted at 19:08:33

余分なことをすること、「遊び」を持つことの重要性は、ホイジンガなどを通して海外のインテリ世界ではよく知られているが、その点日本人はおそらく世界一その重要性を認識していない。
posted at 19:10:30

たとえば日本語で「大学における遊びの重要性」という話をしたとすると、しばらくは本来の趣旨で議論されていても、議論のプレイヤーが増えるうちに、どこかの時点で「酒飲んで女抱いて青春することのなにが重要か」といった低レベルな話に矮小化される。そういう意味じゃないって。
posted at 19:16:58

系統知を欠いた議論というのはかくも矮小で均質化されたものになってしまうというオチ。面白くも何ともないけど。
posted at 19:19:55

真宗の生まれた地点:一念義と多念義、そして唯信別開へ(9/10〜11)

9/10

親鸞阿弥陀如来に帰命することのうちに仏教的な教・行・証を包摂してしまった(唯信別開)ので、自力仏教を基本とするならまあ異端といえば異端。法然はどうかというと、浄土真宗による法然読解もあるのでなかなか単純ではないのだが、教・行・証体系からすればオーソドックスな論理だったのは確か。
posted at 19:39:35

真宗のなかには法然親鸞を一体的に見る向きもあるのだが、たとえば念仏に対する態度に違いが見られるのは客観的にいって明らかなこと。念仏をめぐっては当時隆寛律師の一念義*1に関して論争があり、法然は一念義をはっきりと否定している。
posted at 19:42:39

親鸞はというと、一念多念文意なんていう文章を書いているくらいなので隆寛律師の一念義*2から決定的な影響を受けているのが明らかだが、信の有り様は一念だが救済の確信(お礼)としての称名念仏というかたちで多念義にも配慮している。
posted at 19:47:26

ただ、やはり一念義を前提してしまったのは決定的だ。法然からすれば、念仏はさとりを得るための行なのだからその念仏が一発だけでいいなどと考えるわけにはいかなかった。ところが親鸞の場合、それを認めつつその前提に信の定まる回心の念仏=一念を置くので、その一念にすべてが包摂されてしまう。
posted at 19:54:56

こういう信心にすべてが包摂されてしまう論理に、法然が与するわけにはいかなかっただろう。教行証体系全体を別のニュアンスで塗り替えてしまうから。そうなると、スタイルとしてすでに仏教的でなくなってしまう。どちらかというと、ある宗教が別の宗教を取り込む際に考える理屈に似ている。
posted at 20:00:16

だから、法然親鸞の一体性を強調する解釈は、真宗側からみた党派的主張の域を出ないと言っていいと思う。それでも(信心同異でいうような)一体性・同一性が求められるとするならば、仏教に現れた無限の理念そのものである阿弥陀如来をめぐっての存在論的な部分だけだ。
posted at 20:08:21

近代の真宗(特に東)は、阿弥陀如来や念仏をめぐるこうした問題系が、無限をめぐる存在論的な理解をめぐっていることを自覚するところからはじまった。戦後ではハイデガーの影響下にあった安田理深師などが高名だが、その後はどうなっているんだろう?
posted at 20:13:32

無限をめぐる存在論的な理解というと僕自身はスピノザを思い出すところだが、それはまた別の話。
posted at 20:14:01

9/11

数時間前につぶやいたことだけど、ちょっと不正確だった。一念義の主唱者は幸西大徳で、隆寛律師はどっちかというと一念義多念義論争を、両者を対立的なものでないとすることで決着させようとした論者だから、親鸞の先駆者というべき人だった…と言ったら真宗寄りすぎる説明かな。
posted at 00:29:25

もっと一般的には隆寛律師は多念義ということになっている(浄土宗長楽寺派)けれど、念々に臨終を引き寄せた念仏という意味で一念義を強調した側面もあるので、仲々ややこしい。
posted at 00:32:18

ただ、律師本人は法然一門のオーソドキシーを守っていたように思う。
posted at 00:33:34

赤沼智善・山辺習学の『教行信証講義』(法蔵館)では多念義をはっきり邪義と言い切っている(31頁)が、法然も「一念義停止起請文」を書いてまではっきり多念義の立場に立っていることを思うと、そこまで言っちゃっていいんですかという気がしないではない。
posted at 00:40:13

尤も、そこは真宗としてのポジショントークの面があるから仕方ないのかもしれない。隆寛律師みたいな立ち位置は評者の立場に左右されやすいのかもしれない。
posted at 00:46:32

9/14(後記)

ひとが無責任に他人を裁くことに快楽を覚える生き物でありつづける以上、どれだけ文明化されても僕らはこういう野蛮から解放されないのかね。 / 【ウェブ特報】札幌連続女性暴行「容疑者の実家」ネットデマ 電話攻撃の全容(1)「違うって証拠あるの… http://htn.to/smZie1
posted at 01:57:17

むやみに、でたらめな正義を振りかざして無辜の他者を攻撃する馬鹿は絶えたことがないからね。そういう意味での成長というのは、文明とかそういったこととは別の部分にあるのだろう。
posted at 02:04:47

もちろん、人間的自然 human nature なんてのはそもそも成長発展するようなもんじゃないという認識もある。そういうのは各個体が個別に超越するしかないという仏教の立場もそのひとつだろう。煩悩具足の凡夫。
posted at 02:17:59

先日真宗関連のツィートを連投したら、親鸞は仏教じゃないという理解も可能じゃないかという趣旨のことを言ってくる人がいたが、今言ったような human nature の不変性とか救済の個別性みたいな人間理解に関わる部分はわりと仏教の共通フォーマットに従っている。
posted at 02:26:06

だから僕は、親鸞の思想を考えるとき、自然ともっと広い文脈と連続している部分に目が行く。吉本隆明は『最後の親鸞』という著書を書いて、おもに正像末和讃あたりの最晩年の親鸞のことを考えたが、僕は逆に、一念義論争とか、善光寺に出入して念仏聖をしていた時代とか、最初の親鸞に興味がある。
posted at 02:30:03

「仏教の出自はインドであり、中国を経由して日本にたどりついた。親鸞は仏教を日本出自といえるところまで沈潜させた。それは別の言い方をすれば、仏教を解体の方向に開くものだったといっていい。」(吉本隆明) http://bit.ly/ckTdmq #inbook
posted at 06:09:23

親鸞伝統仏教からして異端は異端だが、そうすることによりかえって、がんらい苦行の否定と在家主義に主眼がおかれていた大乗仏教の、思想運動としてのダイナミズムを回復させたのだとも言えるのではないかと思う。そういう「解体の方向に開く」開かれ方に僕は面白みを感じているのかもしれない。
posted at 06:16:19

……いちどはじめちゃったネタは、時間おいてでもひとまとめしないと気が済まないのよ僕。
posted at 06:30:39

あんまり真宗ネタばかりつぶやいてたらそのうち坊さんか何かと勘違いされるからそろそろやめとこう。
posted at 06:56:43

*1:浄土教における立場の一つで、真実信心の込められた生涯ただ一回の念仏にて救済される(往生が確定する)とする立場。本文で触れた通り、多念義と論争になった。

*2:この訂正部分については9/11の部分を参照。

罪人の死と死生観:芸能リポーターの死をめぐって(8/23)

今朝方から猪瀬直樹氏と岩上安身氏関連のtweetでTLが荒れており(しかもその多くは第三者による局地戦!)少々うんざりしている。愛知県民であり、岩上シンパでも猪瀬シンパでもない僕からすると、他人事であることこの上ない。せめてRT流すのはもうやめてくれ。
posted at 20:01:58

まあ今般の件では岩上氏は完全にやらかしちゃってるので、まあ岩上シンパの人が慌てて騒ぐのは話はわかる。だが、彼を批判している人達がそれに付き合ってあげる義理があるんだろうか?僕には水に落ちた犬だからと好んで叩いている構図にしか見えない。勝手に水に落ちた人も悪いには悪いが。
posted at 20:13:34

まあこれで岩上氏は、下手をすれば築地市場移転問題から完全撤退することを余儀なくされるかもしれない。それはご愁傷さまというほかないわけだが、誰かとの論争でやらかしちゃったとき、撤退の時期と方法を誤ったらこうなると、戦略戦術論的な意味で、他山の石として教訓にするくらいはできるかも。
posted at 20:24:16

だいいち、築地市場移転問題からして他所のローカルな問題なのだが、それとすら別問題なわけだから。本当にふたりの言論人に対するシンパシーの問題でしかない。
posted at 20:26:35

勝手にやってください。
posted at 20:29:29

それよりも今は、死んだ梨元勝氏についてどう考えるかという方が難しい。いったい彼は芸能界権力と戦った功労者なのか、単に下世話な覗き趣味に迎合しつづけしかもそのシステム化を推進した下賤の輩なのか、そのいずれでもない単なるタレントの亜流か。
posted at 20:36:28

おそらく職業の貴賎は関係ない。ただ、お天道様の下なんら恥じらうところのない芸能レポーターというものを、僕らが想像しにくいというだけだ。
posted at 20:39:52

あと、亡くなったばかりの人のことをネガティブに云々することがどうかという話がこういうときは決まって出てくるものだが、死すればすべての罪が浄化され仏になるという類の手前勝手な思想を持ち合わせていない僕*1からすれば、まあ常識的に遺族の方々への配慮くらいはしようねという言葉しか出ない。
posted at 20:45:32

生前罪を犯した人はその罪によって輪廻する、というのは俗流仏教の説明だが、生きている間でさえ自己同一性なんて揺らぎ続けているのに身体を失った後そんなもの保てるわけがなし。勿論仏教の認識論はそんなことはとっくに踏まえているので、そこはおそらくもうちょっと深読みする必要があるだろう。
posted at 20:50:01

某氏がそうだとは言わないが、罪人の死をどう見るべきかという倫理的な悩みが、おそらく罪人の死というものには付きまとう。罪人でなくとも、たとえばどう贔屓目に見ても評価も弁解もしようのない生き方しかできなかった人のことを僕らはどう見るべきかというかたちで同種の悩みはつきまとう。
posted at 20:57:20

僕は実体としての魂の不滅とか非肉体的自我の同一性といったものを一切認めないので、罪人がその罪によって悪趣に赴くといった類の神話を文字通りに理解することはできない。
posted at 21:01:16

ただ、その時代の価値観云々といった次元とはちがった、それこそカント的に普遍的な次元で問われる倫理というものがあって、そういう倫理に反することを生前行ってきた人は、死して口をなくした後はなにを言われても反論できないだろうなと。生き様の記録で反論できないわけだから。
posted at 21:03:29

反面、そういう死者について生きた我々が倫理的に語ろうとするとき悩ましいのは、批判したところで相手はもういないということ。かつてそこにいたということの記録=記憶を専ら相手にするしかないし、それは存在した時点で相手それじたいではないので、常にやましさの感覚を伴う。いわゆる畏怖だ。
posted at 21:08:26

文明的に発展した宗教には、そういうものの直撃を避けるためのイデオロギー装置みたいなものを備えているものがあって、それは例えば輪廻と解脱の論理だとか終末の裁きだとか、生き残った者にそれなりの理解を与えた上でかつ倫理的に行動させるように機能する。
posted at 21:12:17

その点、死すれば皆平等に浄化という現代日本の死生観は、倫理的な意味で貧弱だ。死に際して業が問われないわけだから、生き残った者が倫理に直面することがない。だから、さして倫理的にあろうとする動機は起きない。しかも、所詮は手前勝手な論理なので、やましさの感覚はなまなましく残り続ける。
posted at 21:16:01

要するに、日本人が死者をとやかく言わない論理は、死人という他者と倫理的に対峙することができないことのやましさの感覚を、善悪の図式というオブラートで包んだものなのだろう。そしてそれは、日本人が永年、文明化以前の宗教(縄文・弥生の宗教)しか持てなかったゆえの結果でもある。
posted at 21:23:47

死人というものいわぬ他者を畏れる感覚は、それじたいは死者について生きた我々が倫理的に語ろうとするときの悩ましい感覚そのもので、倫理的問い掛けなのだから、あったほうがいい。その意味では、装置ができすぎていて直面する必要すらない文明的宗教の強固な文化圏より柔軟な態度を取れる。
posted at 21:30:32

ただし、それは要するにマニュアルがないということなので、僕らはなまなましいやましさの感覚にその都度直面し、悩みぬいて結論を出すほかはないのだ。さて、僕らは梨元勝という人をどう見たらいいのだろうか…
posted at 21:31:57

そういや仏教で思い出したんだが、仏教系カルトの人って、アーラヤ識のことを個人の(!)記憶=記録を保管するシステムみたいに誤解している人が結構いて、そういう人は死後も自分が自分でありうると頑なに信じちゃってるんだよな。だから自分に対する疑いがない。自分を疑えないから教団を疑えない。
posted at 21:56:29

こういう話をすると、ユング集合的無意識を持ち出すけったいな人がまれに登場するわけだが、悪いこと言わないからやめといた方がいい。だいいち仏教的にアーラヤ識は刹那滅なんですが、集合的無意識って刹那に滅しちゃっていいんですか?
posted at 21:59:09

*1:真宗がこうしたものと思われることがあるが、典型的な誤解である。真宗においては信を獲らなければ報土往生できない。

検察は司法権には属さないが司法作用の一翼を担う。

 …だから、検察官の職務にはある程度の独立性が要求されるし、行政の指揮命令関係という面からみても相応の配慮が為されている。その意味では、検察官は司法権には属さないものの、司法権独立の論理の影響を一定程度受ける。たとえば、ある事件を訴訟にかける際には当然検察官自身が法的判断をするわけであるが、そのさい事件にどの条文を適用すべきか否かという判断においては、条文を類型的・形式的にあてはめる等、司法判断の特性に応じた(その意味で独立の)判断をすべき使命を帯びる。政治的影響をにじませて判断をその都度変えるようなことはあってはならないこととされている。その意味で、かれらの司法に関する判断は政治その他の影響から独立的(!)である。

 …こんなこといちいち説明しなければいけませんか?

24日のTweetより

たんに司法権独立という点だけ考えても、まるで外圧に配慮したかのような文言で処分保留のまま釈放という論理に落とし込んだのは問題がある。*1 / 船長の釈放について - リアリズムと防衛を学ぶ http://htn.to/7o1NU6
posted at 16:38:56

かえって仙石官房長官の方が形式的には司法権独立に配慮した格好になっている。それより深いところのことは知らないが。何にせよ、日本国の司法権にとって愉快な話ではない。
posted at 16:40:50

検察というのは一応行政府の一部だが、行政府と独立のものとしての司法権に属する存在でもある。だから、内閣との指揮命令関係のことに触れる言葉には注意が必要だ。
posted at 16:51:56

少なくとも、地検を(法務省を通じて)内閣の末端組織に属するという面ばかりに目を向け、地検に高度な外交的・政治的配慮すら求めるのが当然と言うが如く非難するのは、国家機関に関する理解が浅いと言わざるを得ない。*2
posted at 17:02:12

検察は司法手続に関する判断に限っては司法権独立の論理が及ぶ。そこに直接的な政治的配慮を盛り込ませるのは、それじたい問題がある。今般の釈放の件では外交的敗北をなじる言葉ばかり溢れているが、そう言う人たちの司法権理解はやっぱり浅いとしかいえないだろう。
posted at 17:09:01

全くその通り。 RT @fromdusktildawn: 選挙で選ばれた国民の代表が政治判断を下すのが民主主義国家なんじゃなかったっけ?
posted at 17:09:44

普段から起訴裁量とかばかりやってるせいで司法判断の独立性を忘れてしまったんじゃないか?地検は政治判断をする場所じゃない。/ 中国人船長を処分保留で釈放へ 那覇地検日中関係を考慮」 - 47NEWS(よんななニュース) http://htn.to/Pk8U5u
posted at 17:17:24

むしろ超然として司法判断の独立性にこだわり、拘留期限ぎりぎりまで引っ張って返していた方が日本政府的には都合が良かった(!)だろう。
posted at 17:20:22

検察が外圧に触れて容疑者を処分保留のまま釈放というのは、政治的にではなく司法判断として不当。それは司法裁量権の濫用だから。もちろん日本国として政治的にも都合が悪い(!)わけだが、それは結果としてそうだということでしかない。
posted at 17:25:44

だから、中国人船長釈放の件にかんする非難で正しいのは、「これでは外圧があったら罪を犯した者みんな釈放だ、おかしい」といった種類のもの。おかしいのは犯罪容疑者が外部の論理の影響を受けて裁量的に釈放されてしまうということ。
posted at 17:30:47

一方で、中国との外交問題の責任を引き受けるのはもちろん内閣であり、検察官ではない。だから、とりあえず釈放を「地検独自の判断」とした仙石官房長官の談話それ自体は正しい(形式的には)。ただ、政治的には「企みが足りない」と非難されても仕方ないだろう。
posted at 17:35:09

ともあれ、中国政府はこれで(今まで通り?)日本を「やりやすい相手」と取るだろう。しかも今度の場合、外圧に対する司法当局の弱腰まで露呈してしまった格好になったので、なお悪い。
posted at 17:40:31

おわりに

まあ、中学レベルの三権分立理解で、検察は行政権に属するんだから内閣の政治判断を忠実に守るべきものだ、…なんてみっともない理解を晒している人がいないとも限らないので、一応まとめておいた次第。*3

*1:この点もうちょっと説明を加えておくと、がんらい司法権に属さないはずの検察の判断が司法権を侵すことがありうるかどうかという問題がある。もちろんそれはあるわけである。有罪の可能性の高い事件で、本来ならば起訴したうえで裁判所の判断を仰ぐべき状況があったとき、検察が外部の影響のもと起訴を恣意的に見送ってしまった場合、それは本来あるはずであった裁判所の判断を事前に抑制してしまう結果となる。過ぎたる起訴便宜主義は、他者(=裁判所)に属するはずの司法権の独立を間接的に冒すことがありうるのである。

*2:「検察権は裁判所とは異なり,司法権には属さず行政権に属しており,裁判官とは異なり検察官は法務大臣の一般的な指揮・監督を受ける(検察官一体の原則)が,検察官による起訴・不起訴が政治的圧力に屈するようでは,刑事裁判の公正を期すことはできない。そのため,検察官の身分も裁判官と同様に強く保障されている。」http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sihou.htm

*3:「行政っぽいですよ?」程度の理解でidコール飛ばしてしまう困ったお人もいることだしね。http://d.hatena.ne.jp/topotaupe/20100924/1285349923 因みに、もちろん検察は行政「っぽい」のではなく、行政権に属する。当たり前の話すぎて敢えて話題にする価値もないから僕はいちいち書かないのだが、こういう人がいるあたり、それともいちいち書いた方がいいのだろうか?

代替的選択ーーー菅直人の「参加型民主主義」とその起動条件

菅直人の目指すシステム、民主党の正統性の原理

さて、兎にも角にも小沢氏の所有する政治システムが廃棄されることは決定した。廃棄するからには、別のシステムが代替することになるわけだが、それは一体何なのか?
posted at 22:05:42

菅直人氏はかねてより「参加型民主主義」ということを言っているが、それは彼自身が説得的な弁舌の持ち主でないことも手伝って、よく明らかになっていない。ただ確かなのは、それは資金流通のハブというものを必要としないものということだろう。でなければ「クリーン」という形容詞の意味がない。
posted at 22:08:29

言ってみれば、小沢氏の所有するシステムが中央集中型とするならば「参加型民主主義」は分散型、部分部分の個別の判断が集積されるものということになるだろう。それは「草の根民主主義」という主張につながる。
posted at 22:11:34

そう考えてみると、じつは菅直人的政治システムというのは、鳩山由紀夫氏のいうところの「新しい公共」や「友愛」と通じるものと見えてくる。この二人は現民主党結党の当事者なので、その共通部分が民主党の正統な行動原理ということのになるわけだ。
posted at 22:15:44

多くの民主党員が「民主党的なもの」とか「らしさ」とか呼ぶものの正体がこれだとするならば、それは党の正統理念への忠誠を意味する。ならば、外様でない親藩譜代の民主党員が、効果絶大ではあっても所詮外部からの導入物にすぎない保守本流政治システムを選ばないこと自体は必然とも見える。
posted at 22:21:22

そして、「民主党的なもの」の理念が「参加型民主主義」システムを意味するならば、次に問題となるのは、それはちゃんと動作するのか、また僕らの抱える問題を解決するのに効果的なものなのかどうかということ。
posted at 22:23:53

読みづらいのでかりにこのシステムを「民主党システム」と呼ぶとしよう。民主党システムは分散型。これがちゃんと動作するためには、システムを構成する分散された個々人が意思う機関としてそれぞれしっかりしている必要がある。
posted at 22:29:45

そして、その達成は非常に難しい。先行要件の充足が難しいのだから、システムが作動されその効果が現れる時期はさらに遅れる。誰もがそれをわかっているので、積極的にこのシステムを評価する人はほとんどいない。僕らが熟議民主主義を採用するわけにいかないのと同じで、待っていられないのだ。
posted at 22:30:59

新しいシステムは稼働しないーーー三勢力の三すくみ

ただ、すでに他方を捨て民主党システムを選んでしまった以上、民主党としてはもう歩みを進める他はないわけだ。その場合、このシステム導入のリーダーはまさに導入をリードする必要があるわけで、それは菅氏と鳩山氏になるわけだが、かれらは十分に動ける状態にあるか?
posted at 22:34:56

そこで問題になるのが仙石氏ら七奉行と、その後ろ盾たる渡部恒三氏なのである。鳩山由紀夫氏は象徴的すぎて「他方を捨て」られなかったし、すでに過去の人なので動けない。となると、しぜん菅直人がやるしかないわけだが、かれはかれで思う存分動くことができない。なぜか?
posted at 22:37:44

それは、やはり資質の問題である。菅直人という人は一貫して少数勢力のなかで生き抜いてきた人なので、党内基盤が弱い。弱小勢力が大勢力と伍するために使える戦法は、ゲリラ戦しかない。だから菅直人は、ゲリラ戦しかできない。正規戦を戦えない。
posted at 22:40:18

要するに、周到に準備を重ねて他勢力を説得し、説き伏せ従わせたり妥協させたりすることができないわけだ。だから、ほかの大勢力に弱い。小沢氏のシステムを推す勢力はもちろん、執行部を構成する他勢力も。つまり、凌雲会花斉会
posted at 22:44:16

ゲリラ的殲滅戦しかできない菅直人の勢力は、小規模ならではのジレンマがある。彼は、少数派の自分らがどうやって数において勝る中規模軍団二つ(凌雲会花斉会)を統制したらいいか知らない。まして彼らと対立する大軍団(小沢グループ)などどうにもできない。これでは三すくみである。
posted at 22:53:31

仙石氏らはその弱みを知っている。だから菅氏を担いだ。そして、その時点で菅直人氏は七奉行に逆らえなくなってしまう。生存のためには小沢氏に付くか、渡部恒三の影響(七奉行)に巻かれるか二者択一だが、新人主体の前者に比べ、後者は党幹部層を構成する中堅ぞろい。はじめから答えは出ている。
posted at 23:00:26

凌雲会花斉会はナイーブな政策マニアの集合にすぎないので、政治システムどうこうなんて大局観は最初からない。結局、結党理念はかれら個々人の資質を前に妥協させられる羽目に陥る。それは、民主党システムが原理的に抱える困難にぴったり相応している。民主党システムは起動しようがないのだ。
posted at 23:04:01

それでも民主党システムを起動するためには、いまや民主党の基幹部分をなす七奉行それぞれが政治的に成熟し、来るべきシステムの設計図を頭に入れ、段取りを守って忠実に工程を重ねてゆくことに期待する(!)しかないのだ。待つことしかできない。それが菅政権のジレンマである。
posted at 23:13:55

結局、小沢氏のシステムを廃棄した今後、民主党が期待できる状態になるためには、渡部恒三七奉行という限界を突破するしかなく、その時期は恐らく自然な世代交代まで訪れない。その意味で、今度の菅改造内閣に期待するところが唯一あるとするならば、副大臣政務官人事だろう。小沢派云々ではなく。
posted at 23:31:02

結局民主党有権者は、途轍もなく悠長な選択をしたということだ。勿論、いつまでも待っていられるものではないので、案外早い時期に日本の有権者が結論を急ぐ可能性は高い。それは政界再編なのか、それとももっと想像の斜め上をゆく事態なのかは不明である。未来は誰にも分からないのだから。(了)
posted at 23:34:18